「無垢の自然が残るトカラ列島」
日時: 平成20年12月13日(土)14:00~16:30
会場: 鹿児島大学共通教育棟1階111教室
入場無料(どなたでも参加できます)
「現代日韓関係の一断面-「歴史の記憶」をめぐる近年の動向を中心に-」
日時: 平成20年10月27日(月)16時30分から
会場: 総合教育研究棟5階ホール
「鹿児島の海の生きものたち」
クラゲ・ヒドロ虫・イソギンチャクの世界
日時 : 平成20年9月27日(土)13:00-17:35
会場 : 鹿児島大学総合教育研究棟2階203講義室
In one study I did in Southern Philippines on the Bajaus, a Sama speaking people known as
sea gypsies but are now settled in water villages, I found that the memory of their life ways have been
inscribed in the idea of a kauman - a compound of houses on piles, linked by footways and thereby
forming a cluster of extended family with matrilocal residence rule. These compounds to my mind are
relics of maritime civilization as they reflected how mooring groups of extended family-boat houses
would roam around and fish together and moor at a common mooring sites. The groups are not
however isolated from each other but are linked by kinship ties to other mooring group of boat houses
in the archipelago. These groups formed a “community” of mobile peoples of the past.
In another study I did in the Visayas, Jibei Island and Kohama Islands, I tried to retrieve memories
of life ways of island communities in the ways they manage the ishihimi, stone tidal weir. Ishihimi
are stone barricade traps built on gradually sloping reef tides. These are constructed in a semi-circular
manner in such a way that when the tide rises it will overflow through the barricades of stones thereby
trapping the accompanying sea animals when the tide recedes. It is said to be a copy of a natural
hollow in the sea where anyone can simply gather during low tides. The foremost researcher
of ishihimi, Nishimura Asahitaro, considers the ishihimi the living fossils of fixed fishing gear with
ancient origins.
This presentation will try to bring in three ideas deduced from the study of ishihimi as (1) a relic
material culture linking Asia and the Pacific Islanders, (2) ishihimi as umi no hatake and the
idea of the commons, and finally (3) how ishihimi came about and what they signify at the present time.
現在、多島圏研究センターでは、「南北連続‘新・道の島々’センサーゾーン
拠点形成」というプロジェクトを鹿児島県島嶼を対象に行っています。このプロ
ジェクトの一環として、しまうた演奏会を企画しました。
迫力と細やかな情感をあわせもつヒギャ唄の重鎮・石原久子さんと、本年度
「奄美民謡大賞」最優秀賞受賞の期待の若手・前山真吾さんによる、しま
うた演奏会です。
古代地中海人とサカナ文化との関わり合が,10000年以上も昔からで続いていた
ことを述べ,なかでも黒マグロに寄せる彼らの愛着を強調したい。
この海では安価で大量に獲れるサカナは住民にとり必須の食品であり,その極み
をギリシャ・ローマの饗宴に見ることができる。当時の古典にはサカナ物語がかなり
含まれており,それも阿漕な魚屋を懲らす話は勿論,漁業から料理の講釈まで詳
しい。わが国の魚醤と似ているガルムは魚の発酵食品であるが,ローマ人には人気
の高い調味料となったので,生産量を増やすのに魚の多いイベリア半島の各地に
工場を建てた。ガルムの味に紳士は蘊蓄を傾けたが,マグロの入ったイベリア産の
品を殊の外珍重した。
エーゲ海の孤島の巨大洞穴ではマグロの骨から釣針を作っていた。レバントの民
は漁具を周辺国に売り,大マグロを舷側に吊るし葡萄酒色の海を渡って交易に励
み,イスタンブールの金角湾ではマグロを手掴みできた。男たちが漁の初めに唱える
文言は,ヘロドトスの「歴史」にある神託からの伝承と聞いた。
8000年昔のマグロの岩壁画を初めとして,沿岸各地に残されたモザイクと壺絵に
描かれた多数のサカナの絵は魚類図鑑さながらで,しかも正確に描かれているだけ
に魚との付き合いの伝統を実感させる。
奄美の島唄・島口の伝承についての概略と徳之島の事例を報告する。今回は奄美の小中学校87校を訪問して伝承の概略を御教示いただいたものの、現段階での中間報告をする。結果言えることを推測すると次のとおりになる。
①島唄は、ほとんどの学校で取り組まれているが、島口は島唄を通した間接的な伝承となっている。
②島唄の伝承も多様であるが、(ア)喜界島、奄美大島(加計呂麻島・与路島・請島を含む)、徳之島までと(イ)沖永良部島、与論島は違っている。多様であり一概に言えないが、(ア)では「行きゅんにゃ加那節」「よいすら節」「稲する節」「八月踊り(呼称は多様)」等々が取り上げられ奄美の古い島唄へも近づいている。(イ)では「えらぶ百合の花」「ヤッコ」「あしみじ節」「なちかしゃの島」等々であり琉球民謡へ近ずいている。
③島唄に新民謡を入れる場合、「大島育ち」などは広い範囲で歌われている。
④八月踊り(呼称は多様)が運動会で踊られている学校が多い、子供たちが唄まで歌うことが望まれる(ア)。沖永良部島の知名町では「ヤッコ」、和泊町では町民体育祭踊られる唄と踊りが運動会でも歌われる「サイサイ節」。
⑤島唄の発展として「六調体操」が創造され体操しながら島唄5曲が覚えられる。「天の白雲節」「えらぶの子守唄」「稲すり節」「ワイド節」「六調」である。
⑥地域社会(公民館講座等)の人々との関わり・働きが大きい。
グローバル化が進み、多くのものがあふれている現在、われわれは豊かな社会生活を送っているように見える。しかし、一方で環境問題の多発や生物多様性の危機など私たちは自然環境との新しい共生の仕方が求められている。 伝統的な社会では多くの場合自然環境と共生した生活を送ってきたが、現在は多くの社会でこの様なシステムは崩壊しつつある。しかし、太平洋島嶼地域にはまだ伝統的な社会経済システムが存在し、そこでは自然環境と共生した生活を現在も行っている。このような伝統社会をもう一度見直すことにより、新しい人と自然の共生システムを形成することができるのではないだろうか。 本シンポジウムでは太平洋島嶼における人々の自然との関わりについて、学際研究を越えた学融研究という視点から、今後の自然とのかかわりについて考えます。 入場は無料でどなたでも参加できます。
2月23日(土)13時00分~「要旨」 (要旨)
ミクロネシアでの日本の存在は、ミクロネシア人にとり重要で影響力のあるものであったが、ミクロネシア人自身を除いて、忘れられている。通常、日本の関与期間は大きく2つに分けられている。(1)鹿児島を含む日本中から富を求めて島に来たトレーダー時代と、(2)日本が第一次世界大戦の時(1914年10月)ドイツから押収し、後に国際連盟委任統治した1914~1941の植民地期間である。因みに、ドイツのグアム(1898年米西戦争で米領)を除くミクロネシア所有は、スペインから買ったものであった。
19世紀後期日本では国会成立後、国会議員の間で、南進論と北進論のいずれにくみするのかは重要な議論となった。南進論では、米国を将来の敵と見なし、海軍強化論を主張。北進論は、中国・ロシアを将来の敵と見なし、陸軍強化論を主張した。当時の国家拡張論を理解する上で、両概念と両者の関連を理解することは重要である。
日本のトレーダーはドイツからの強固な抵抗に遭遇した。ドイツはパプアニューギニアの植民地から北上し、1885年にはマーシャル諸島を保護地域とした。それからカロリン諸島・マリアナ諸島と移動し、離島にある日本のミニ商社を追い出そうとした。森小辨は、1890年代にトラック諸島(現チューク)に来て、残りの人生をそこで送った人だが、すでに南洋貿易支店主任として、一番の重要人物であった。ドイツが日本のトレーダーを追い出そうとしたときに、あまりにも重要・有力であったので、国策会社Jaluit Gesellschaftの契約先代表として彼を確保する策を採った。
第一次大戦時、日本帝国海軍は3週間でミクロネシアを支配し、ドイツ人捕虜を送還した。戦後、日本はベルサイユ条約により国際連盟委任統治を開始した。