国際島嶼教育研究センター
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島嶼研シンポジウム
「地域課題からの「創造」-与論島で暮らしと未来を考える」
日時:令和6年2月10日(土)13:30~16:30
会場:大島郡与論町福祉センター 大ホール
主催:鹿児島大学国際島嶼教育研究センター
共催:与論町
後援:まなび島
中継:国際島嶼教育研究センター会議室、奄美分室、オンライン

参加費:無料(事前登録が必要です)

プログラム   ・要旨


●要旨

『地域づくりは「わたし」から』

森 隆子(鹿児島大学国際島嶼教育研究センター/与論町役場健康長寿課)・平敷結美(与論町役場健康長寿課)

1.与論島という島
 「東洋の海に浮かび輝く⼀粒の真珠」と謳われる与論町は、⿅児島本⼟から南へ600km、 海を隔てた周囲 23km、人口は5000人程度で一島一町から成る島嶼部である。県の最南端に位置し、かつて琉球王朝にも属した歴史から、今もなお琉球⽂化の影響が⾊濃く残る多⽂化・境界域の島でもある。

2. 島での日々を通して、見えてきたこと
 与論島での日々を通して、おぼろげながらも見えてくるものがある。そこでは、人生を通して行われるさまざまな意思決定(島立ち~看取り)と葛藤、孤立感やちょっとした/制度外の困りごとの存在-紆余曲折を経てなお、生きがいや喜びを感じながら成熟し、人生の統合への道を歩んでいく(ように見える人も居れば、一定の生きづらさを抱えているような人も居る)-では、「わたし」はその島をどうみるか。

3. 島をおもしろがって“みる”
 自分のいる身近な世界をおもしろがってみる-わたしにとって島から得た最大の学びである。島に浸っていると、島や人の生きる姿に、次第にその日常にある創造性が見えてくる。それぞれの異なる「まなざし」に学びながら、自分の「まなざし」を時に変化させながら育てていく。立場や領域の垣根を越えておもしろがってみること、そこに楽しさや好奇心を少々加えた「まなざし」をもってみることが、未来と暮らしを創るヒントになるのではないかと考えるようになった。

4.地域づくりは「わたし」から
 Personal is public(個人的なことは、公共的である)-地域づくりは小さなところから始まる。すぐに解決できそうなことも、そうでないこともある。一人では実現できないことも多い。当シンポジウムを通して、地域の課題やテーマが共有され、さらなる立場や役割を超えて協働しながら創造的に取り組んでいくための土台づくりの一歩になれば幸いである。また、話題提供者(語り手)の多くが、シンポジウムへの登壇が初となる。その挑戦に心からの敬意と感謝を表する。



『老いと障がいへのまなざし』

池田ひとみ(与論町役場健康長寿課)

 本町の高齢化率は2023年37%、2040年には47%まで上昇すると見込まれている。一方、本町の障害者手帳の受給者数は2023年現在394名となっており、障がい者の高齢化率も年々上昇している。
 その中の一人、高齢男性のA氏は片眼でうっすら見える程度の視力で、単身生活を送っている。失明への不安を抱えながらも、ヘルパーや訪問看護の支援を受けつつ、自身で編み出した様々な生活の知恵を駆使し、日々を大切に生活されている。また、日頃相談の中で、認知症の方や精神障害を抱えながら生活されている方々から、「家族に迷惑をかけないようにしたい」、「自分の事は自分で決めたい」という声も多く寄せられている。
 今後高齢化が進んでいく中、様々な課題も考えられるが、これまでどのような思いを大切に生活されて来たのか、これからどのように生活していきたいのかという本人の視点を大切に、家族だけでなく、地域の方や支援者とも一緒に考えながら支援していきたい。



『島ではぐくむ地域のまなざし』

稻留直子(鹿児島国際大学看護学部)

 あなたの「まなざし」は、相手や地域さらに自分自身にどんな影響を与えるだろうか。 「まなざす」側「まなざされる」側どちらにもなる私たち。与論島で誰もが豊かに暮らすために、多様な「まなざし」をはぐくもう。

内容;
・ 人は他者に「まなざされる」と、無意識的に「まなざす側」の視点に立って自分の事を見るようになる。いつしか、「まなざす側」がいないときにもその価値観や規範に支配されてしまう。
・ 私たちが自分のまなざしや視点を通じて、現実を解釈し、意味づけし、感じることで、私たちの個別の現実が形成される。自分のまなざしを意識的に変えることで、より良い現実を創り出すことができるのではないか。
・ 異なるまなざしを持つ人々が集まることで、より豊かなコミュニケーション(豊かな意見交換、問題解決)が可能になる。
・ 他者のまなざしを理解し尊重することで、相互理解や協力関係を促進される。
・ 障害の特性を「個性」ととらえる寛容さは、離島の良さでもある。優しいまなざしを向ける一方で、本人の「まなざし」に心を配ることも大事。
(「どこで、どのように生きたいか」「いつ、どんな形で手を差し伸べてほしいと思っているか」)



『経験を通してみえてきたこと-わたしの新人奮闘記』

稲江翔馬(与論町役場健康長寿課)

 これは、島外出身/学校を卒業したばかり、いわゆる「島の新入り」による奮闘記である。私は、去年6月から地域リハビリテーション支援専門員(理学療法士)兼生活支援コーディネーターとして役場に勤務しはじめた。理学療法士とは、「動作の専門家」である。具体的には、歩く、起き上がる、寝返るなどの日常生活を行ううえでの基本となる動作の改善をめざす。また、生活支援コーディネーターとは、「地域で支え合う仕組み」を地域の方々と考えて課題解決の手伝いをすることがめざされる。

 当初、「地域」というフィールドを前に、正直迷い、困惑の連続であった(現在も絶賛継続中)。そもそも、人も地名も分からない。何をどう動けばよいのかも分からない-地域とは何か、生活を捉えるとはどういうことなのか、理学療法士/生活支援コーディネーターとして地域とどのようにつながるべきか-今ふりかえってみると、なにが正解なのか分からない日々のなか、自分にできることを自分なりには模索したつもりだ。時に自分が島で何ができるのか、不安と隣り合わせになることさえあった(と思う)。

 今、私にとっての人生訓ならぬ地域訓がある。それをもとに、「ここに来たらみんな居て、さびしくない場所。集まりたい場所。そんな場があれば良いのではないか」そんなことを考えるようになった。楽しく、ゆるくつながりながら心身ともに健康になっていく。そんな場があったらどうだろうか。そんなことを考え、小さな実践をはじめている。今はまだ小さな種かもしれないが、これは島での出会いや学びを通して見えてきた私の「発見」である。

わたしが与論島でつかんだ地域訓:
一. 高齢者が生まれ育った土地で安心して暮らしていける町づくりを行うためには、困りごとや地域課題、ニーズについて、周囲や地域住民の声を取り入れながら見ていこうとする姿勢(まなざし)が大切である。
二. 地域の集いの場への参加や訪問・相談活動など、日々を通して見えてきたことを考え、さらに幅広く、いろいろな人から意見をいただきながら考え続けることによって、町の本質的な課題や町民の方に本当に求められているニーズが見えてくる(すぐにはたどりつけないが、それでも続ける)。
三. 自分が行っていることを「点」でとらえず、さまざまな課題や、町、町民にもつなげて考えること、すなわち「木を見て森を見ず」とならないようにしていくことが大切である。



『居住支援について,考える』

日髙彩那(与論町役場建設課)

 高齢化を始めとした多様な住宅確保要配慮者が増加している昨今,それらの人々への適切な住環境の確保については喫緊の課題である。私自身が居住支援について興味を持ったきっかけは,公営住宅の管理担当として実際業務を遂行していくうえで何度もぶつかった「どこまでが住宅担当の自分の業務か」という疑問が始まりである。
 ここでは与論町における住宅確保要配慮者に焦点を当て,本町特有の課題に基づいた居住支援の在り方を検討する。
 一島一町の本町では離島というハンデから特有の課題も多く,居住支援の策においても独自の体制を検討し,構築していく必要がある。
 まず,住宅確保要配慮者に関わる職に就く人々や当事者が居住支援についての知識をどの程度持っているか知りそれぞれに理解を広めていくことに必要性を感じる。
 また,離島の小規模なコミュニティでは住民同士の繋がりや関係機関の情報共有,連携が居住支援を行う上での最も重要なプロセスである
 一方で,本町における住宅確保要配慮者への居住支援には多くの課題が存在する。住宅の不足や人材確保の難しさ,地域の特有性に合わせた適切なサービスの提供が求められる。これに対応するために,行政や民間,地域住民との協力が重要である。
 住宅確保要配慮者の属性は多岐に渡るため,様々な機関での連携が必要である。潜在的な住宅確保要配慮者も含め安定した住環境の提供,生活スキル向上,社会参加の促進を柱とした包括的なアプローチが求められる。
 居住支援について見聞を広げていくうちに見えてきた当初の疑問の答えは,「入居者を支援するための業務にエンドラインはない」ということである。その業務が自分で行うのか,第三者に繋ぐことなのかもしくは一緒に行うことなのか,いずれにせよ必要なことをしない選択肢は基本的にないのではないかという結論に至る。福祉に携わったことのない私の知識はまだまだ浅く戸惑うことも多いが,今がスタート地点である。今後も入居支援で留まるのではなく,各機関と連携することにより入居後の生活支援についても一体的に提供し,地域住民がより充実した生活を送れることを期待したい。



『経験を通して見えてきたこと~「楽しい」「面白い」をいつまでも~』

裾分理司(与論町役場健康長寿課)

【背景】
 発表者は1年前、地域包括支援センターへの異動を命じられた。
 今回の発表は、地域包括支援センターが何をするところかも分からず、ひたすら振られた業務をこなしたり、訪問について行ったりしながらその中で見えてきたことや学んだこと、考えたこと、今後やっていきたいこと等、これまでやってきた1年間のまとめである。
【内容】
 長生きするためには、人生を“楽しむ”ことが重要である。毎日が同じことの繰り返しでつまらないと感じることがあるかもしれないが、新しいことを学ぶことや自分の興味を追求することで、人生に刺激を与えることができる。また、友人や家族との交流を大切にし、社会とのつながりを持つことも、健康的な長寿につながると言われている。年齢を重ねるにつれて、身体的な制限もあるかもしれないが、その“制限を受け入れつつ自分にできることを見つけ、楽しみを見つけていく”ことが大切である。
 また、発表者自身が取り組んでいる「世代関係なく誰でも立ち寄れる居場所作り」の実践経過も交えながら、今後の発表者自身の取り組みについても触れていく。



『防災ゲームからみえてくる地域とのかかわり方』

出村雅代(勝手に‼ゆんぬぼ~えい隊♬)

「防災ゲームを作りたい!と思ったきっかけは?」
 2022年1月15日のトンガ沖海底火山噴火に伴う津波避難を体験し、あまり逃げ場のない小さな与論島での災害に対する不安から、「島をよく知るツール」として防災ゲームを作ろう!と思った。
 避難時は、低い土地に住む高齢の両親と共に神社の駐車場で車中泊避難しながらも、自宅で過ごす体調の優れない家族の心配もあり、不安な中、何度も島内を往復していた。これが近海で起こった地震や津波ならどう対処できたのだろうか?さらに家族が一緒にいない日中に災害がおきたら…。少しでも不安を解消したい!そのためにも島をよく知ろう!という思いでより防災に興味が湧いた。

「与論島をより知るためには?何をしたら?」 実行したことは…
・ 与論の地形を知ろう→島の各所の海抜を調べたり、活断層の位置確認、地質学の講座参加等、、
・ 与論の水は?→水道設備の話を聞きに行き、ため池の位置や簡単な水質検査、井戸の位置確認、雨水活用、個人で出来る浄水ポット作りで地域の方と情報共有(ワークショップ)
・ 逃げる力、逃がす力は?→家族で自主避難訓練実行♪、避難経路の把握・予想、身を守るすべを知る(ワークショップ)、ともしび活動での近所の把握
・ 防災の知識を付けるには→研修を受けて防災士の資格を取得!、自衛隊や気象庁の講話に参加、島の自主防災組織に所属し避難誘導訓練に参加、県庁での避難マップ作成講座に参加等、、
・ 防災をイベントに!!→まーじん防災イベント開催で楽しみながら日常に防災を感じてもらう♪

 防災ゲームを作りたい!といった思いから、色んな事に目を向けちょっとずつ活動できた。島のインフラを意識することでその恩恵にも気づかされ、資源をもっと大事にしよう!という気持ちが芽生えて、環境を守っていくことが防災にもつながり、地域を大事に、人のつながりを大切にしていきたいと思う。

・ 防災ゲームはゆんぬカルタのように遊びながら学べるカードゲームとして、「島をよく知るきっかけ」になれたら。
・ 危険箇所を入れながらも島の資源・価値に気づき、昔ながらのしまんちゅの生きる知恵を感じてもらう。
・ ゲームに勝つためには深く知る事と共に人とのつながりが大事!!そんな防災ゲームが出来上がるように!
・ これからは縦割りではなく、横のつながりが求められると思う。
・ 常に「自分ごと!」の感覚を忘れず、関係各所とのお互いのつながりを意識しながら、これからも与論への自分なりの「まなざし」を深めていきたいと思う。
・ 私の好きな【3でき】のポリシーで!!
できる時に、できる人が、できる事を♪
まず、自分が楽しみながら進んでいきたいと思う。




『もしも!の災害からみる地域』

野口貴子(勝手に‼ゆんぬぼ~えい隊♬)

 私達の住む日本は数百年単位で定期的に災害が起こります。それ以外にも台風や大雨・人災と言ったイレギュラーで起こりますが、私の記憶は数年しか持ちません。東日本大震災のときに、 あんなにも恐れを感じ枕元に靴を置いた日々も数ヶ月で終わりました。

 防災に向けて備蓄しよう!と思って購入していた沢山のサバ缶もいつの間にか20個程度となってしまいました。平穏な日常を過ごしていると、危機感を持ち続ける事が難しいと強く思います。先日の能登半島沖地震に置いても、昨年5月に地震があり備えていたと思われますが、支援までの困り事がいくつも聞かれました。

 私の「防災」のスタートは、「我が子」です。「避難」時は普段車に乗りなれない高齢者が運転する かもしれません。高台に行くためには高校への道とピャーぬパンタへの道が混むはずです。 緊急時に児童を優先した安全運転ができるのか?高校に行く道は断層にも重なっており、きちんと道が確保できているのだろうか?
 避難訓練で高校に行ったことのない子供たちは、列から離れてしまった場合高校にたどり着けるのか?その疑問が、防災に関心を寄せたきっかけでした。
 そして、今は
・ 親がいなくても、安心して避難所で過ごせる。(避難先になれている)
・ 放課後でも、「津波てんでこ」の様に逃げられる。
・ 避難受け入れ先の、子ども達が避難時の対応を知っている。
・ 逃げる側・受け入れる側、援助する側、援助を受ける側、そして家族に等しいペットたち同伴の避難。
・ オフラインになった時、避難所それぞれで速やかに安否確認できる方法の確立。
 これらを踏まえた、避難所作りの避難訓練・ワークショップができたら良いなと思っています。「島立する前に少しでも防災や減災に関する経験を提供したい。」今はそんな気持ちでゆる~く・ スモールスタートで防災への活動に取り組んでいます。



『ヨソのワカモノがシマで暮らしてみた』

浅尾晋也(宇検村役場保健福祉課)

【背景】
 宇検村は、奄美大島南西部に位置する人口1,621名(令和5年1月末現在)、高齢化45.8%の村です。奄美大島の名瀬からは車で約1時間、焼内湾を囲むように集落が点在しており、役場のある湯湾集落から最も遠くの集落である屋鈍集落までは車で40分かかります。点在している集落はそれぞれ方言や八月踊り、生活スタイルにも違いがあり、小さな村ではありますが多様な地域性を持っています。
 私は長崎で生まれ、中高は父の実家のある熊本で過ごし、大学から鹿児島で暮らしています。ここ宇検村には、平成22年に臨時職員の保健師として採用され、翌年から正規職員として採用されました。宇検村に来た動機は、『同じ1年を過ごすなら、島で暮らした方が面白いだろう』という軽い感じのものでした。学生時代に奄美大島の瀬戸内町、加計呂麻島や沖永良部島に行く機会があり、島の暮らしについては多少のイメージを持ってはいましたが、いわゆる『島暮らしがしたい!!』という強い気持ちではなかったように思います。こんな“なんとなく”な動機でシマに来たヨソのワカモノが、14年も宇検村に暮らしているのには何か理由があるはずです。時にはシマを離れようかな、という気持ちになることはありましたが、それでも自分は今、宇検村で暮らし働くことを選択しています。今回14年の中で私自身の仕事や暮らしの中で経験したこと・挑戦したことを振り返りながら、シマだからこその魅力や可能性について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。







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