国際島嶼教育研究センター
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島嶼研シンポジウム
「島々とアジア・太平洋戦争―記憶の継承・保存・活用を中心に―」
日時:平成30年3月4日(日)13:00~17:30
会場:鹿児島大学総合教育研究棟203号室
中継:国際島嶼教育研究センター奄美分室
主催:鹿児島大学国際島嶼教育研究センター
参加費:無料

プログラム   ・要旨


●要旨

『済州島の日本軍の戦跡地と住民の戦争記憶―Alddreu飛行場を中心に』

趙誠倫(鹿児島大学国際島嶼教育研究センター・済州大学校)

 韓国済州島には、日帝末期、日本軍がつくった巨大な軍事施設が陸・海軍の飛行場、砲台、塹壕、高射砲陣地、訓練場及び監視哨所、避難所、陣地坑道、特攻隊基地、    飛行機掩體壕、弾薬庫、爆弾埋立地など多様するだけでなく、ほとんどが原型のまま残っている。この場所は、済州道民らが見るたびに強制動員された痛い記憶の場所、否定的な場所だ。でも同時に済州島の戦争遺跡は、日本軍が済州島を中心に、いかに戦争を準備しており、住民をどのように動員したかを分かるようにしてくれる媒介体である。したがってこの媒体を通じて戦争の実状を正確に理解できる教育プログラムを作るなら、平和教育の資料になることもできるだろう。
 今日、済州島では戦跡地をめぐる対立が進行中だ。代表的な戦争遺跡であるアルトゥル飛行場を1988年に韓国空軍が使用しようと計画した。しかし住民の反対運動が起き、白紙化された。その後、済州島当局は、日本軍が残した施設を近代遺産に指定して、この地域を平和公園として造成しようと計画を立てた。しかし、軍隊は依然としての軍飛行計画を推進し、対立が続いている。済州島は東アジアの戦争基地の一つに変わっている。一方、市民運動家たちは、住民たちに戦争の記憶を喚起し、基地  反対を訴えている。この発表では、アルトゥル飛行場を中心に、戦争遺跡の活用案をめぐって対立している済州道の状況を通じて、住民たちの戦争の記憶の再生問題を 考える。




『硫黄島民(東京都)の戦争体験とその記憶―強制疎開、地上戦動員、故郷喪失』

石原俊(明治学院大学社会学部)

 硫黄島と北硫黄島は、19世紀末から1944年の強制疎開までの約半世紀間にわたって日本帝国の「南洋」入植地のひとつとして発展していた(南硫黄島は住民なし)。両島合わせた人口は、最大時に約1,200名を数えた。
 だが1944年、南洋群島に侵攻し始めた米軍は、日本軍の飛行場がある硫黄島の奪取を決定した。大本営の側も、本土防衛の時間稼ぎのために硫黄島での地上戦を想定した。硫黄列島民1,254名のうち1,094名が、本土に強制疎開させられた。いっぽう、硫黄列島に住んでいた16歳〜60歳の男性のうち160名は、強制疎開の対象からも除外されて軍務に動員された(北硫黄島は全員が強制疎開の対象となり被徴用者はなし)。
 1945年2月19日、米海兵隊は硫黄島に対する上陸作戦を開始した。硫黄島では3月末に日本軍の組織的抵抗が終わった後も夏期まで、米軍による掃討作戦が継続した。地上戦開始まで硫黄島に残留させられた島民被徴用者103名のうち、生存者は10名であった。
 日本の降伏にともない、米国は奄美諸島、沖縄諸島、小笠原群島などとともに、硫黄列島を軍事占領下に置いた。1951年、サンフランシスコ講和条約によって、日本は再独立を獲得するのと引き換えに、米国が小笠原群島とともに硫黄列島を引き続き軍事利用することを追認した。米軍は硫黄島に核弾頭を秘密裏に配備し、島民の帰島を拒み続けた。
 1968年、小笠原群島とともに硫黄列島の施政権が日本に返還された。ところが日本政府は、硫黄島を自衛隊に軍事利用させる目的で、北硫黄島を含む硫黄列島の島民に引き続き帰郷を認めなかった。硫黄列島民は2018年時点で、74年にわたって故郷喪失状態に置かれている。
 硫黄列島民は、日本の総力戦の〈捨て石〉として利用され、さらに冷戦下における日本の再独立・復興の〈捨て石〉として利用されたといえる。本報告では、硫黄列島民の「戦争経験」と「冷戦経験」から、20世紀の日本と太平洋世界を問い直してみたい。



『奄美大島・瀬戸内町の戦争遺跡』

鼎丈太郎(瀬戸内町教育委員会)

 瀬戸内町では、近代以降の戦争に伴う軍事施設跡が、現在も数多く残されている。そして、その保存・活用について、地域住民はもちろん、諸分野からも関心・要望が高い。
 全国的にも近代以降の戦争遺跡の注目度は高く、文化庁は『特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然基準』を一部改正し、「史跡」の指定基準に「戦跡」を加え、対象年代を第二次世界大戦終結頃までと、その範囲を広げる事とした。その流れは、広島県の原爆ドームの国史跡指定へとつながり、1996年にはユネスコ世界遺産に登録され、戦争遺跡を「文化財」として保存・活用していく必要性が広く認識される契機となった。
 瀬戸内町でも、文化庁国庫補助事業として2014年~2016年度にかけて、町内の近代遺跡の実態を把握する為の分布調査を行い、206施設の軍事施設跡を確認する事が出来た。しかし、未調査地が存在する為、今後も分布調査を継続する計画である。
 現地調査については、基本的には写真及びGPSデータの収集を行い、町内の軍事施設跡の分布を把握する事を第一の目的とした。また、砲台等一部の遺構については遺構の略測図を作成したが、素掘りの壕は安全面を第一に優先する事から内部の確認は行わなかった。遺物は調査実施範囲において表面採集出来たもののみ採取を行った。
 今回の報告では、確認できた軍事施設跡を下記の5期に分け報告を行った。
Ⅰ期:奄美大島要塞開庁以前
Ⅱ期:奄美大島要塞開庁後から太平洋戦争直前
Ⅲ期:太平洋戦争前半(戦争開始から旧日本軍の占領範囲が最も広大だった期間)
Ⅳ期:太平洋戦争後半(太平洋戦争の戦況が不利となった時期から終戦までの期間)
Ⅴ期:終戦後(終戦後から現在までの期間)
 Ⅰ期は、1895年に構築された佐世保海軍軍需部大島支庫(水溜)跡等があり、赤煉瓦造りの構造が特徴である。Ⅱ期は、1921年に構築された奄美大島要塞関連の軍事施設跡が挙げられる。1919年の要塞整理要領に則り要塞施設の建設が行われるが、ワシントン海軍軍縮会議により工事が中断した為、備砲は行われなかった。Ⅲ期は、陸・海軍の様々な軍事施設跡が建設されるようになる。Ⅳ期は、物資不足と敵の上陸を想定した施設構築が行われた為、素掘りの壕など臨時的な軍事施設跡が多い。また、震洋艇など特攻用の武器が配備されるようになる。Ⅴ期は、武装解除により砲台や 弾薬は廃棄されたが、構築物の多くは破壊をまぬがれる。しかし、生活物資が不足していた為、木造兵舎は共有建物として転用され、鉄筋コンクリート建造物は鉄など金属を抜き取る為に一部が破壊され、現在では消滅した近代遺跡もある。
 今回、取り上げた近代の軍事施設跡は、歴史的・残存状況・遺構の特徴から重要なものとして、今後の文化財指定も念頭に入れた取り組みが必要となってくる。一方、今回は調査及び資料不足により取り上げられなかった近代遺跡や、継続調査により 発見される可能性がある施設跡についても、今後、詳細な調査を行う事によりその 重要性が認識される可能性が高い。よって、こうした近代遺跡(戦争遺跡)を文化財保護法における埋蔵文化財として、記録保存も含めた開発対応を行う事が望ましい。瀬戸内町教育委員会では、今後も広く諸分野と連携・協力を行い、近代遺跡調査を継続的に実施して行く予定である。



『戦争の<記憶>を未来につなぐ』

佐藤宏之(鹿児島大学教育学部)

 1945年の日本の敗戦から73年という歳月が経過した。戦争体験世代や戦争や戦時の生活を少しでも記憶している世代は少なくなり、体験や証言として戦争・戦時が語られる時代から、非体験者からさらに次の非体験者へと継承される時代になった。
 直接体験を持たない世代、戦争や植民地支配の過去を知らず、その史実を十分に 学んでこなかった世代が、戦争の〈記憶〉をどう受け継いでいくのか。今日の教育的・社会的課題といえる。
 体験者本人の生の声で証言するということは、ここ数年以内に確実に不可能となり、歴史研究の基本である文字記録によってしか研究ができなくなるという状況がやってくる。体験者の消滅によって、文字記録主体の「普通」の歴史研究になってしまうことを、ただ指を咥えて見ているだけでいいのだろうか。むしろ、体験者の証言をこれからも活用し続けていく方法論を模索し、構築すべきではないか。
 戦争体験者の証言を平和学習に利用することを通じて、「戦争の〈記憶〉を未来につなぐ」ための方法論を提起したい。





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