国際島嶼教育研究センター
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ミクロネシア連邦ヤップ州のウリシー環礁(Ulithi Atol)での調査
ヤップ航海記

  • 2001年10月10日 敬天丸出港式

    <11時00分 敬天丸出航式>
    たくさんの人が見送りに来ていた。家族や友人、テレビ局の人たち。一ヶ月に渡る航海がついに始まるのだという実感が一気に盛り上 がってくる気がした。 出航式が終わると私たち調査隊員は敬天丸に乗り込んだ。全員が乗船すると船員さんはなれた手つきでタラップを取り外しにかかっ た。タラップが岸壁から離れると、ああもう戻れないんだ、とちょっぴり寂しい気持ちになった。

    <11時30分  昼食>
    乗船してから30分もすると昼食になった。食事の準備は1日交代の食事当番がする。メニューはカレーライスとサラダ、デザートにみかん。ちょうどよい辛さでおいしかった。

    <13時00分> 
    対面式 船員の皆さんと調査隊員がお互いに自己紹介をした。これから一ヶ月お世話になる船員さんたちはみなやさしそうだった。その後一等 航海士の吉永さんから船での生活における注意事項の説明を受けた。と、このあたりから揺れが大きくなり、体じゅうからいやな汗が 出てきて、 頻繁にあくびをするようになった。「それは船酔いの第一段階だよ」と吉永さんがニヤリといった。説明終了後夕食まで横に なる。う〜んつらい・・・。

    <17時00分 夕食>
    メニューは鳥のもも肉、冷奴、チンゲンサイの炒め物、豆腐と海苔のスープ、野菜サラダであった。すごい 豪華だ。しかし食欲がない。メインのもも肉は食べきれなかった。 食事のあと甲板に出るとちょうど夕陽が霞がかった屋久島に沈むところだった。甲板に大の字になって寝転ぶとちょうど星がひとつ出 ているのを見つけた。船の揺れに合わせて星も八の字に動いて見える。この揺れになれるまでは辛いだろうなぁ。寒くなってきた。そろそろ戻ろう。

  • 2001年10月11日 今日は食事当番

    <06時00分 起床>
    シャワーを浴びる。冷水で目が覚めた。

    <06時30分 朝の体操>
    全員でラジオ体操。第2までしっかりやった。

    <07時15分 朝食>
    今日は食事当番。料理の入ったトレーを並べ、お椀や皿を準備する。メニューはししゃもと大根の細切り、豆腐とのりのみそ汁。昨日 の夕食に比べるといたってシンプル。でもあまり食欲のない自分にはこれでも充分すぎるくらい。みんな食べ終わったところで後かたづけ。残飯は専用の機械で細かくして海へ。魚のエサとなる。司厨部の人がきて「昼は冷やし中華だから人数分の皿を準備しといて」と、何気に昼食のメニューを知らされてしまった。う〜ん、楽しみがへってしまった。

    <08時30分 今どこ?>
    ブリッジに上がり現在位置を調べる。GPSの画面を見ると北緯27°37.015、東経131°59.150と表示されていた。航海士の福田さんに鹿 児島からおよそ460キロの地点だと教えてもらった。景色はあまり変わらないけどヤップに向けて順調に進んでいるようだ。

    <10時00分 調査用ロープ作り>
    私たちの班はヤップで水深を測定したり、海水や底質(海底の砂や泥)を採取したりする。そのときに使うロープを船員さんと作った。といっても、船員さんが手際よく重りや目印の結び目なんかをぱっぱとつけてしまい、ほとんど見ているだけだった。船乗りはロープワークの達人なのだ。

    <11時00分 昼食>
    メニューは冷やし中華、ひじきの酢の物、バナナ。半分残す。うまそうに食べるみんながうらやましい。食べ終わると朝食同様あとかたづけ。

    <17時00分 夕食>
    白菜のスープ、ほうれん草のソテー、おくらの炒り玉、和風ハンバーグ、レタスのサラダ、納豆スパゲティ。今日も辛くなるほど豪華…。

    <針路変更>
    台風になりそうな雲の塊が針路上にあり、それを回避するために針路を予定より東に変更。そういえば揺れも大きくなってきたような。東経138°まで東に進む予定。ちょうどヤップの真上になる。お願いだからこれ以上荒れないで。

  • 2001年10月12日 大荒れ

    <06時45分 曇 大揺れ>
    今日もラジオ体操をきっちりやって、ブリッジに上がり現在位置を確認。25°01.870N、135°31.344Eちょうど沖縄本島南端、または南北大東島の東側になる。鹿児島からはおよそ970km。揺れがすごい。船酔い信号であるアクビが出っぱなし。昨日食事どきにもかかわらず、その場にいた24名に船酔いアンケートを取ってみた。結果は、船酔いの自覚がある人4名、平気な人20名。全体の2割弱が船酔いということになる。もちろんその中の一人は私である。船で一番気が紛れるのはデッキ(甲板)の上だ。風もあり、なにより開放感がある。あとこれは私だけかもしれないが、デッキの床の板の匂いが気分を 和ませてくれる。長い間太陽に照らされ、雨に打たれた木の匂い。子供のころ遊んだ公園の木製遊具の匂いだ。海の上で陸(おか)を感じることのできる数少ないひとつ。ああ、癒される・・・。

    < 07時00分 朝食>
    明太子、味付けのり、豆腐ともやしと油揚げのみそ汁 なんとか食べきる。

    < 09時30分 洋上大学開講>
    今日から調査隊の先生方がもち回りで講義を行う、洋上大学が始まった。正直、気が重い。予想どおり、講義は揺れとの闘いとなった。講義が始まって5分と経たないうちに、一人また一人と不調を訴え船室へ、デッキへと消 えていく。講義はきちんと準備されたもので、普段であればたいへん有意義なものであったろう。しかし、聞くだけで、いや、その場 にいるだけで精一杯。1時間後、つらく長い講義が終わる(先生ゴメンナサイ)。・・・えっ、午後もあるんですか!?

    < 11時15分 昼食>
    ガーリックピラフ、シーフードサラダ、豆腐とえのきのお吸い物、コーヒーゼリー。 揺れの強さと比例して、食事は豪華に、食欲は減っていく。

    < 13時30分 洋上大学2時間目>
    確実に揺れが強くなる中、2時間目開始。敬天丸が水を切る、地響きに 似た音と振動が船室に響いている。 講義内容はスペインの果樹。講義の感想→すっぱいみかんが食べたい。・・・先生ごめんなさい。 講義終了後、ドリアンの試食会があったらしいが、私は辛さのあまり、トイレに駆け込んでいて、食べることはできなかった。

    < 17時00分 夕食>
    白菜の中華スープ、アジの南蛮漬け、モツとキャベツの煮込、手羽先の甘煮、まぐろの刺身。まったく手付かず。となりの吉田さん、お味のほうはどうですか? 「おいしかったです。」・・・うらやましい。

  • 2001年10月13日 揺れ変わらず強い

    <06時40分>
    現在位置 21°46.708N、138°00.385E 鹿児島から約1300km 低気圧(台風21号になった)を避けるために東に針路変更してから予定どおり東経138°に出たのであとはひたすら南下。

    <07時00分 朝食>
    納豆、白菜のおひたし、とうふとワカメのみそ汁「納豆食べて粘りをだせ」と調査隊で同じ班の柏木さんに言われがんばって食べる。

    <08時00分 掃除当番>
    今日は掃除当番。風呂場、洗面所、トイレ、学生室(食事をしたり、洋上大学が行われる)を掃除する。私は学生室に掃除機をかけた。テーブルの下に乾ききった納豆が落ちており、カラカラと吸い込まれていっ た。船内はとても乾燥している。タオルなんかも船室に干しておくとすぐに乾く。じめじめしているよりはよっぽどいいが、私はのどをやられて、風邪ぎみになってしまった。 そんなことを同じ班の寺田先生に話すと「僕はベッドに水をおいてあるよ」とのこと。さすがである。私も早速空きボトルに水を入れて寝床にスタンバイ。

    <09時00分 洋上大学>
    その場にいただけであった・・・。無念。

    <11時15分 昼食>
    ゴーヤーのおかか和え、白身魚の煮付チンゲン采添え、みかん 朝の納豆が効いたのか、いつもより食べることができた。ゴーヤーでちょっぴり沖縄を思い出す。みんな元気かな。みかんはダンボール箱に入って出されていたのだが、その箱にゴーヤーの絵と鹿児島特産「グリーンレイシ」という文字が書かれていた。グリーンレイシねぇ。ゴーヤーのほうがいいよね、とちょっと地元びいき。

    <17時00分 夕食>
    チキンのチーズ焼き、豆腐ととり肉のお吸い物(かくし味レモン)、麻婆豆腐、インゲンのごま和え、キャベツの千切り、白菜のおひたし。けっこう食べれるようになった。船員さんのおはなし 太○胃散は船酔いの特効薬 えっ、船員さんも船酔いするんですか? 俺たちは食べ過ぎ、飲み過ぎだよ」・・・海の男はたくましい。

  • 2001年10月14日 日本とヤップの時差

    <06時40分>
    17°55.164N、138°00.608E 鹿児島から航行距離約2000km 鹿児島か ら直線距離約1870km 気がつけばもう北緯20度を切り熱帯と呼ばれるところまで来てしまった。日差しは真夏の沖縄と変わらず、風も生温く体にまとわりつく。

    <時差1時間>
    日本とヤップでは時差が1時間ある。私は初め、位置的にヤップは日本の真下だから時差はないのでは、と思っていた。敬天丸で時間を管理している一等航海士の吉永さんに聞いたところ、時間は国や地域で決まっており、経度だけで分けられてはいないとのことだった。考えてみれば、ヤップ島のあるCaroline諸島は経度で20度くらいの幅にまたがっているし、そもそも時計を使うのはそこに住む人々だから、グアムのような地域の中心となる島の影響のほうが大きいのかもなぁ。ところで船では時差をどうするかというと、1日30分ずつ2日かけて少しずつ合わせるとのことだった。今日20時に30分時計が進む。1時間だけだが初めての時差体験。 いとしのGINA 隊長の野呂先生は外国に行くとよく缶詰のフルーツジュースを飲むらしい。味のほうは十中八九はずれということだが、中にはとんでもなくおいしいものもあるという。そんなおいしいジュースの中で先生一押しがGINAのマンゴーネクターだ。それは青い缶で、野呂先生は親しげにGINAの青缶と言っていた。ヤップでも手に入るらしい。弱った胃にみかんやバナナがやさしくしみるこの頃、まだ見ぬ GINAへの期待は膨らむ一方だ。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    <金剛隊員のエッセイ>
    今日は10月14日(日)鹿児島は谷山を出航してから5日が過ぎた。私の体調は上がり下がりでとても関数では表現できない曲線 になっている。何をするにも決断が必要である。シャワーを浴びる時、トイレに行く時、歯を磨く時・・・そして飯を食べる時。信じられないかもしれないがこれが現実である。 一度船酔いにかかってしまった私にとって、再発することが何より怖 いのである。船底が一番居心地が悪い。飯を食べたらダッシュで デッキ へと避難する。そこで一服。「今回も食べれた」そんな自分を誉めたく さえなってくる。飯は「陸で食ったら絶対においしい料理」いや失礼、ご馳走さながらの豪華なおいしい料理なのだ。人生のタイミングをずらされたようなことが多い。気持ち悪いのにおいしいそうな料理、きれい な星空、格安の免税のビール…。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    < 今日の献立>
    朝食・・・焼き魚(イワシ)、大根の千切りサラダ、豆腐と油揚げと白菜のみそ汁、キムチ

    昼食・・・ざるそば、さといもの田楽、牛乳

    夕食・・・ステーキ、ジャガイモのソテー、長いもの短冊、白菜としらたきのスープ、トマトとピーマンの玉子炒め

  • 2001年10月15日 日調査班会議始まる

    <06時44分 晴れ 凪 > 13°27.089N 137°58.322E 鹿児島から航行距離約2660km 鹿児島から直線距離約2330km 海が凪いだ。敬天丸が生み出す波の他に海面に白波はまったくない。ゆっくりとした 穏やかなうねりがあるだけだ。昨日までとまるで表情が違う。あまりにも違うので何か別のもの―巨大な水棲生物の滑らかでぬめりとした皮膚―にも思え、無気味さも感じる。明日はいよいよ上陸だ。

    <調査班会議始まる> 上陸後は陸上班、海上班などに分かれて様々な調査が始まるが、上陸を明日に控え各班で打ち合わせが行われるようになった。昨晩は缶ビール片手にニコニコしていた先生方がにわかに研究者の顔になる。素直にかっこいいと思った。ちょっとした緊張感が船内に広がっている。ボ〜としていた学生も本を取り、PCに向かい、先生方とディスカッションな どをしている。みんな真剣。限られた調査期間でよい成果が上げられるように、一週間揺れに耐えてきた自分たちのために。

    <入港準備〜みんなで船みがき〜> 明日の入港に備え、隊員全員で敬天丸を洗った。雑きんでゴシゴシ拭くと真っ白い塩の結晶がぽろぽろと落ちてきた。もし手入れをしなければあっという間に赤錆だらけだろうなぁ。敬天丸は私よりお姉さんであるが、まるでそんな風には見えない。きれいな船だ。「そういえば裸足でデッキを走ってもささくれひとつないですよ」とは、毎朝ウォーキングしている河野さん。それを聞いて、「しっかり整備しとるからなっ」と誇らしげに答える船員さんが印象的だった。敬天丸は来年、その役目を終えるという。

    <見惚れずにはいられない夕陽> なんて夕陽だろう! 食事当番を終え、デッキに出るとそこはオレンジ色の噴水だった。今までに見たことのない夕陽。美しすぎる。もし悩みがある人がみたなら、こんなちっぽけなことに悩んでいたのかと思うだろう。もしけんか中の二人がみたら、あっという間に笑いあっているだろう。もし喉につっかえたひと言が伝えられない彼がみたなら、思い人にとろけるような言葉を告げることができるだろう。あたたかく力強く情熱的な・・・はぁ、来てよかったぁ。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    <金剛隊員のエッセイその2>
    10/15 皆俄然元気が出てきた。ずっと床に伏していた学生も顔を出すようになりいよいよヤップという雰囲気が感じられる。午前中は2時間 弱に渡る洋上大学にてヤップの紹介等講義を受ける。熱心にメモを取る者、目を閉じて耳を傾ける者、寝ている者?皆徐々に学者、学生の顔になっていく。午後は上陸準備と船の掃除。今までの感謝の気持ちを込め、船についた塩水を皆で拭いてあげた。今までのゆったりした時間が嘘のように急にセカセカした雰囲気になってきた。 今日の夕日は今までで最高だった。雲が空一面にブア〜と広がっており、夕日がうまい具合にグラデーションとなって見えた。みんなそんな時は駆け足でデッキに上がる。皆どんな気持ちで空を見ているのだろうか?私は飲むことしか考えていない。

    < 今日の献立>
    朝食・・・大根おろしとえのきの和え物、キムチ、ワカメのみそ汁 昼食・・・チキンライス、切干大根レモン風味、わかめと玉子のスープ、オレンジ 夕食・・・砂肝とニンニクの芽の炒め物、さばのソテーしょうが風味、ビーフンサラダ、キャベツとにんじんとコーンのスープ

  • 2001年10月16日 ヤップ沖に到着

    <04時20分>
    9°28.286N 138°14.340E ヤップ沖に到着。昨晩、4時頃には島が見えると聞いていたので、何とか起きてブリッジに這い上がった。残念ながら雨のため、ぼんやり陸の灯りが見えるだけだった。島影が見えないためか、ただ眠いからか、今ひとつ実感が湧かない。風呂に入りラジオ体操まで、いつでも3時には起きている石黒先生と雑談。

    <ラジオ体操>
    時差で1時間早くなっているから、まだまだ薄暗い。雨は止んでいた。いつもより早起きしたせいか、今ひとつ体に切れがない。体操が終わると周囲はかなり明るくなっていた。ある人は船の縁に体を押し付けて、ある人はファインダー越しに島を見ている。どの顔も笑っている。さあ、上陸だ!

    <11時20分 接岸>
    鹿児島の谷山港を出航して6日、ミクロネシア連邦ヤップ州ヤップ島のコロニアに到着した。長かった・・・のかな?いやそうでもなかったような・・・。なぜかよくわからない。紙の地図の上でもなく、水平線のへりでもなく、目のまえにあるからだろう。

    < 13時30分 上陸〜州知事表敬訪問>
    接岸から2時間、様々な手続きを経てやっと上陸。私はワイシャツにスーツのスラックスという南の島には似つかわしくない、というより確実に浮いている格好をしている。というのも、野呂隊長、河合事務局長らのヤップ州知事表敬訪問にカメラマンとして同行することになったからだ。コロニアの中心街のちょっと小高くなった所に大きな平屋のヤップ州政府庁舎はある。正面には石貨が飾られ、濃い色のニスが塗られた木 製の内装が印象的な建物だ。建物に入りいよいよヤップ州知事に面会。州知事さんはVincent A. Figirといい、副知事さんをAndrew R. Yatimanという。二人ともやさしそうな方々だがさすがに貫禄がある。会談の結果、今回の調査への理解と許可を得ることができた。帰り際、知事と握手させていただいた。その手はやわらかくとても厚かった。「写真をと らせてもらえませんか」と聞くと、何も言わずニッと微笑んでくれた。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    < 金剛隊員のエッセイその3>
    10/16 未明、小雨交じりの中ヤップ沖に停泊。その後、夜明けを待ち、 じわりじわりと近づいてくるヤップ島を皆でみつめる。皆どんな思いで見ていたのだろうか?ようやく、本当にようやく着いた、という安堵感なのだろうか?皆そこから動かなかった。第一印象は「想像 と違い意外と整然としているな」そう、どこか日本の南の島の港に着いたみたいだった。ただ、ムア〜っとする熱気、強い日差し、それだけは日本ではなかった。これだけ長く船に乗って外国に来たのは初めてだったにも関わらず全然実感が湧かなかった。その後、町を歩く。明らかに植物の色が違った。原色に近い花、紫色の草・・・そしてヤシの木、マングローブ。それらを見て嬉しくなり実感が 湧いてきた。のどかと言うよりひっそり、といった感じの町。歩くのが楽しかった。歓迎の?夕立を浴び船に戻った。何だかわくわくしてきた。

  • 2001年10月17日 晴れ時々スコール Kadaay Village訪問

    <〜石畳の道の島〜>
    ヤップの伝統的な集落を見ることができるKadaay村を訪問。湿って滑りやすい石畳の道を海岸向けに下っていく。奥へと誘い込むように黄色い斑入りのクロトンが道沿いに植えられ、ヤシは道を覆うようにその葉を伸ばしている。道端の湿地にはタロイモ畑が作られていた。そのタロイモ畑を回り込 むように進むと、大きな建物が見えてきた。ガイドの人の話では集会場とのこと。すべてヤシの木で造られており釘は一本も使われていないと いう。集会場は石積みの上に建てられているが、この石積みは村にとって一番重要なものだそうで、立ち入ることができない個所もあった。

    集会場前の比較的広い道には大小さまざまな石貨がずらっと並べられていた。大きなもので直径が2mくらいあるだろうか。この風景どこかで見たような・・・そうだ、コロニアのマーケットで売られていた75セントの絵 葉書の写真だ。ヤシの家や石貨、初めて見るこれらヤップの文化に私は驚き感激した・・・といくところだが、実はKadaayの集落に入るときに通ってきた石畳の道のほうに私はより感動していた。なぜか は分からないが妙に引き付けられた。気づくと列の最後で遅れがちになりながら写真を取りまくっていた。「そんなにあせんなよ、もっとゆっくり行こうよ」と心の中で呟く。私にとってヤップは石貨の島ではなく、石畳の道の島になった。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    <金剛隊員のエッセイその4>
    10/17 今日は他の班を尻目に観光地巡り。まあ、いろいろ行ったのだが印象に残ったところを一つ。KadaayVillage(カダイ村)ここは伝統 的なヤップの住まいが保存というか残されているところ。もちろん今でも 住んでいる。とにかく私は周りの自然に目を奪われていた。 植物に疎いので名前は出てこないが緑の楽園とでも言おうか。きつい日差しと湿 気がなければ楽園そのもの、という感じだった。歩い ていて非常に気持ちのいい雰囲気になってきて吸い込まれる、という感じなのだろうか?その後、石貨を見る。私の中では「ヤップ= 石貨」という印象が強い。しかし、置物?がらくた?とも見えた。目の前でココヤシの実を引きずって遊ぶ女の子がかわいかった。風 景に溶け込んでいた。 今日 になりヤップがだんだん分かってきた。というより雰囲気を感じることができるようになってきた。けれどその整理はまだできな い。こんな短期間では絶対にできないだろう。言い方が分からないがいろいろなものが交錯する島、と感じる。

  • 2001年10月18日 コロニア出航、ウリシーへ

    <16時00分 コロニア出航、ウリシーへ>
    ミクロネシア連邦ヤップ州の中心地ヤップ島から調査のメインフィールドであるウリシー環礁へ向け、敬天丸はコロニア港を後にした。今度ヤップ島に戻るのは10日後の28日だ。リーフを抜け外洋に出るとあの揺れが戻ってきた。はじめは「懐かし いなぁ」なんて笑いあっていたのだが、30分もするともうダウン。あとはもうベッドで寝込むしかなかった。おやすみなさい。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    <社会文化班 吉田環隊員のフィールドノート>
    おひめさま――ヤップのメスピル
    100年程前のヤップの村にはメスピルという「おひめさま」がいた。他の村からさらってきた10代の少女を村のメンズハウスに住まわせていた。彼女は、全ての女性の労働を免除され、着物、食事を与えられ、若者達の「おひめさま」として暮らす。夜、彼女は若者達の性の相手を努める。そして2-3年の後、山のような土産物と共に元の村へと帰される。メスピルであったことは、ヤップ社会においては決して恥ではなく、汚名を着せられることなく暮らしていた。しかし、諸外国との関わりの中で、「女性蔑視」といった誹りを受け、近年では「恥」であるとして、学校で教えられることもなくなり、年老いた女性達もそれについて口にすることはないという。

  • 2001年10月19日 モグモグ島上陸

    <10時00分 モグモグ島上陸>
    ウリシーのあちこちの島から(有人島全4島中2島)からボートをチャーターして28人の大上陸作戦(?)が始まった。敬天丸から2艇のボートに分乗して2往復。水しぶきを浴びながら5分ほどで到着。MEN'S HOUSE(集会場)で対面式が始まった。その名のとおり MEN’S HOUSEには女性は入れない。4名の女性隊員は外で待機。チーフたちは青いふんどしをつけ、ビートルナッツの噛みタバコをかんでいる。緊張した雰囲気が漂っていたが、そのうち冗談も出始め、和やかになっていった。 予定では午後から調査をすることになっていたが、昨日島の人が亡くなったらしく葬儀があるということで明日に延期になった。そのかわりモグモグ島を案内してもらえることに。島中にココやしが生え、その根元ではヤップでは見かけなかった豚が飼われていた。島でいちばん印象的だったのは子ども達だ。笑顔がすごくいい。密林の中を裸足で元気に 走っている。カメラを向けるとちょっと恥ずかしそうに笑ってくれた。2時間後、敬天丸に帰還。当初の目的は達成できず作戦としては失敗だったけど、大成功した気分。

    <14時00分 無人島で素もぐり>
    河合事務局長の交渉のおかげで環礁の島のひとつで泳げることになった。敬天丸から再びボートで移動。10分ほどで無人島Potangeras に到 着。島のまわりはサンゴ礁で遠浅になっているから、砂浜のかなり手前から歩いて上陸。みんなあっという間に準備して一目散に海へ。150mくらい水深1mのリーフが続き、そこから急に5〜6m落ち込む。底をのぞくとサメが寝ていた。2mくらいはあっただろうか。後で聞いてみるとSand Shark (砂サメ?)というおとなしいサメらしい。そーとサメの上(もちろん水面近く)を泳いでみたが、自分よりも大きい生きものと海 の中でいっしょにいると思うと興奮した。1時間ほどリーフを漂ってあがった。ちょうどいいタイミングでスコールがやってきた。みんなシャワータイム。

  • 2001年10月20日 再びモグモグ島へ

    <08時00分 再びモグモグ島へ>
    昨日空振り気味に終わったチーフたちとの打ち合わせのため、隊員全員でモグモグ島に再上陸。今日は女性隊員もMEN'S HOUSEに入れることになった。島民の参加者は昨日より少なかったが、1999年にテレビ番組世界ウル○ン滞在記に出ていたホセさんがいらしてい た(実は行きの船でみんなでビデオを見ていた)。会議は2時間にもおよんだが、野呂隊長、河合事務局長らの努力で、私たちのリサーチは好意的に迎えられることとなった。さあ、調査開始だ!

    <11時00分 海洋調査〜揺れとタバコとスコール>
    調査隊は調査フィールド別に社会文化班、海洋班、農業班の3班に分かれている。班はさらに研究対象ごとにいくつかのチームに分かれている。私は海洋班のリモートセンシングチーム(以下RSチーム)に所属 している。RSチームでは水深と海底の状態が変化するとき、海面で反 射する光がどのような変化をするか調査している。ボートに乗り込んで、海底の砂や海水を集め、海の深さや海面で反射する光の強さを測定する。私はひどい船酔いをするが、モグモグ島に行くときに乗ったボートでは気持ち悪くなることはなっかたので、この調査も大丈夫だろうと思っていた。と・こ・ろ・が、いざ測定が始まってみると一気に気分が悪くなってしまった。朝は大丈夫だったのにおかしい。そこでちょっと自分なりに分析。導き出された船酔い原因は、

    1.ボートが止まっていること
    2.下を見て測定値を書いていること
    3.ボスの吸うタバコの煙から逃げる場所がないこと の3つである。

    @走っているときはいいのだが、止まっているボートはこれ以上ないというリズムでとてもいい感じに揺れてくれる。Aその揺れに合わせて文字が目の前で踊りそして、Bどこからともなく煙が漂ってくる。まったくよくできたラグーン・プリズン。この監獄の看守はウルトラヘビースモーカーで、片時も口からタバコを放すことはない。ボートの上では動くこともままならず(測定してるし)、風上ににげることもできない(風上は海の上だし)。私は過酷な労働環境でただ耐える囚人。しかし、もう目も虚ろな囚人にウリシーの神はやさしく微笑んでくれた。紺碧の空を覆い隠す灰色の雲、そうスコールだ。大粒の雨が打ちつけ、海は荒れ始めた。 調査中断、母船に撤収〜。雨に濡れ、風に吹か れ体は冷え切っていたが、天を仰ぎ感謝した、ヤップウリシーの空に。

  • 2001年10月21日 陸に上がった班の隊員の話

    私の調査は昨日とまったく同じ(ただし労働環境は比較にならないほど改善された)。ということで、私たちが海で漂っている間に、陸に上がった班の隊員に話を聞いてみた。

    <農業班 疋田隊員の話>
    ウリシーの有人島のひとつFalalop島で、ココヤシ、タロイモ、ヤムイモ、かんきつなどをサンプリングを行った。すべて徒歩でとても暑いうえに、調査が進むにつれてサンプルも増えてたいへんな重労働。調査には島の高校で数学を教えている協力隊の中川俊介さん が案内をしてくれた。彼は島根出身で新卒でこの島にやってきたらしいが、すでに青ふんどしが似合っている。作業終了後は海水浴。今までのどこよりもきれいな海。疲れを忘れさせてくれた。

    <社会文化班 上原隊員の話>
    今日は日曜日ということで、Mogmog島の教会ではミサが行われていた。教会は青と白のきれいな建物で昨日のMEN'S HOUSEよりも大き い。参加者の8割は女性で、男性は少ない(教会の外で家族を待っているふう)。参加していた女性によると、男性はミサにあまり 関心がないとのこと。教会では賛美歌と神父の説教が交互に行われていた。賛美 歌の合唱はとてもきれいで、聞いていると心が落ち着く。ミサが終わると中にいた子供たちは歓声ををあげて外に飛び出してきた。そして教会の前の広場で輪になって踊りながら歌いはじ めた。その様子はとても楽しげで見ているほうの心も弾み、その輪の中に入りたくなってくる。子供たちは歌の後、みんなで鬼ごっこのような遊びをして元気に走り回っていた。その様子を写したポラロイド写真を渡すととても喜んでくれていた。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    <金剛隊員のエッセイ5>
    10/21 我が班の本格的な調査が昨日から始まった。昨日の疲れがとれぬまま今日もボートで出発。簡単にいえば海洋調査。調査でなければ…本当に幸せになれる風景が広がっている。調査の合間を縫って海に飛び込む。ふと思う「何だかんだ言ってもこんな所で調査できるなんて幸せだ」と。けれど疲れは確実にたまっている。夜、船に帰ってきてみんなの顔を見るのが今、楽しみとなっている。皆それぞれの一日を終えて、やっぱり良い顔してる。違う分野の人たちばかりだから、話を聞いていても楽しい。なんと言っても新鮮な話だからね。日に日にこの調査隊も連帯感が出てきたように思う。一つ屋根の下?とでも言おうか。良い経験しているな、と我ながら思う。

  • 2001年10月22日 え、「総員起こし」ですよね?

    毎朝06時15分に、「総員起こし15分前です。今日も元気にがんばりましょう。(声、河野留美子さん)(眠い頭で聞いているからもしかしたら違うかも・・・)という船内放送があり、その放送で私は起こされる。今日もいつものように数分まどろんで、いつものようにベッドをはい出し部屋のドアを開けた。しかしドアの向こう(全寝室とつながっている学生室)はいつもと違っていた。普段から早起きの野田先生と寺田先生以外誰もいなかったのである。いつもならみんな起き出していてざわざわしているのに、今日はどの部屋のドアも閉じているのだ。あまりに異様に思えたので「え、総員起こしですよね?」と、寺田先生につい聞いてしまった。すると寺田先生は「そうだよ。」といい、野田先生は「みんな無視だ。」と笑っていた。みんな疲れが出始めている。日程もちょうど折り返し地点にさしかかった。06時30分からの体操で、野呂隊長が目をつむりながらも、しっかり体を動かしていたのが印象的だった。疲れもあり船での生活に慣れ始めた今、もう一度気を引き締めていかなければ。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
    <金剛隊員のエッセイ6>
    (10/22)朝、確実にみんなの顔が疲れている。集団生活、船上、刻々と変わるスケジュール・・・。みんなどこかで我慢をしている。そしてみんなどこかでガス抜きをしている。でも、そんなまったりとした雰囲気が私は好きだ。自分をその状況下においてみる。客観視する事が得意な私は、一人で「ふふ」と面白がる。  今日はボート2台で併走して調査。それだけでも楽しく、遊び気分で測定。即、飛び込む。潜っているときが一番幸せだ。運良く? サメに遭遇。驚いたが、後から喜びが沸き上がってきた。きれいな形をしていた。なんて幸運なんだ、と思った。とにかく、変な一日 だった。疲れているのかな。

  • 2001年10月23日 余裕が出てきた?

    一日中小さなボートに乗って調査をしていると、隊員で2番目に船に 弱い私でもさすがに慣れてくる。(ちなみに1番は鹿大大学院1年の疋田くん)作業も手際が良くなり、早く終わった時はボートから海に飛び 込んだりもした。たまに跳ねるトビウオや海面をざわつかせるアジの群れなんかを見つける余裕がでてきた。ちょっと自分の環境になれる能力に感心してしまった。暴力的な日差しの下、海面からの照り返しも受けるボートにいるとどうしたって日焼けする。長袖に長ズボン、ニシムタで買った畑仕事用の帽子に軍手というフル装備でいるのだが、洗面所の 鏡に映る顔は日に日に黒くなっている。え〜い、こうなれば焼いてしまえ。目標は青ふんどしの似合う肌だ。顔と腕だけのまだら焼けはかっこ悪いから全身をむら無く焼かなくては。今日から社会文化班の面々がモグモグ島で調査を兼ねたホームステイを始めた。いっきに船が寂しくなった気がする。しばらく帰ってこないというので、今朝デジカメを渡した。写真いっぱい撮ってきてね〜。

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    <金剛隊員のエッセイ7>
    10/23 疲れているが別に嫌、という気持ちは今やもう無い。「やるか」と思えば体が勝手に動くまでになった。船の上という特殊な状況ながら、慣れてきたのは確かだ。今日も測定の合間を縫って飛び込む。相変わらず気持ちがいい。昼は無人島にあがって昼食。皆、ここぞとばかり に泳ぐ。全てを忘れて泳ぐ。隊員から個人に戻る瞬間なのかな。つくづく贅沢な毎日だな、と思う。ようやく一日一日を大切に過ごそうという 余裕が出てきた。夕食後、隊員会議までの時間デッキに上がってしばし佇む。隊員が疲れた顔で釣りをしている姿が 私は好きだ。どことなく顔がほっとしている。今日で半分。がんばれ自分!

  • 2001年10月24日 珊瑚の世界へ

    私たちのグループは昨日までであらかたの調査を終了していたので、今日は2,3ヵ所データを取って調査は終了した。調査が終わったのがち ょうどお昼頃だったので、近くの島で昼食ということになった。ボートが島に近づくにつれて海の色が青色から緑色になっていき海底の様子が見えてきた。海水のファインダー越しに、様々な形や色をした珊瑚があるのがわかった。それは今まで見てきたどこよりも多様で、どこよりも密集していた。私たちは島の端にあがった。そこはラグーンと外洋を分ける境界で流れが速く、常に海が動いていた。砂浜にはココやしのほかにアダンと白い小さな花をつけた枝が細かく分かれた木が茂っていた。 木々がつくる影に分け入ると、すぅっと涼しくなって気持ちがよく、日差しで緊張していた体が顔から順番に足先まで弛緩していった。腰を下ろしはぁっと息をはく。みんな笑顔だ。さあ飯だ飯だ、おっと弁当を配るとひとつ足りない。分ければいいや。小さいことは気にしない。弁当は相変わらずおいしい。私はいつも入っているさばの塩焼きが好きだ。普段から食べるのが早く、外食すると大抵相手より早く食べ終わってしまうほうなのだが、今日はそれにさらに拍車がかかった。なんでもいいからはやく海に飛び込みたかったからだ。胃袋に弁当を押し込んで、すぐに海にざぶざぶ入っていった。気分が悪くなるかな、と一瞬考えたが、一瞬だけで残りはなってから考えることにした、小さいことは気にしない。

    海中を覗くと灰色と黒とまだら色の岩が広がっていた。お世辞にもきれいとはいえない。先に行けばさっきの珊瑚があるはずだ、と岩を力いっぱい踏み込みこんだ。ぐにゅ。何かやわらかいものを踏んだ感触に慌てて足を引っ込めた。さっき岩だと思っていたものは、藻のようなものの塊だったのだ。階段でもう一段あると思って踏み出したときのような、または止まったエスカレーターを歩くときのような違和感。いやいや小さなこと?は気にしない。慣れてくるとその奇妙な感覚が面白くなってきた。体を海中に沈めて藻のようなものを踏んでいると、きっと月面を歩くとこんな感じじゃないのかなぁなんて考えた。岩のような藻の群生を抜けるとボートから覗いた景色―様々な形と色の珊瑚―が広がっていた。

    しばらく波に身をまかせて珊瑚の上を漂う。はぁ、ため息をつく。本当に海中でため息をついたので、結構息をはいてしまったが、いつもより長く息が続いている気がする(競泳用メガネだけでシュノーケルなんかはつけてない)。枝の先がブルーの珊瑚がきれいだ。珊瑚の間では、シャコ貝が触るとすぐに隠してしまう紫や青の美しいヒダを広げていた。ふと思い立って一度砂浜に戻り、誰かが残した弁当の米粒を珊瑚の近くまで持っていって撒いてみた。ちょっと離れて見ていると―私の乏しい知識では―図鑑一冊分の魚が集まってきた。私のお気に入りは全体 に青くて尾びれが橙色のやつだ。いつでもこんなのが見られたら、日本中の水族館は深海魚やサメばかりになるだろう。不意に大きな波がきて体が浮き上がり、はっとして我に返った。ちょっと先が急に深く落ち込んでいるのに気が付いた。瞬間、前に見た砂ザメの尾が頭のなかで揺らめいた。そういえば自分が最近やっと泳げるようになったことも思い出してしまい急に不安になった(クロールで左でしか息継ぎできない)。さっきまでかわいかった小魚も怪しく海の底に 誘っている気がして、月面藻のところまで戻った。でもそのままあがっ たら、シャコ貝のヒダや珊瑚の枝が白黒になるような気がして、目についた小さな貝殻をひとつだけ拾って砂浜に上がった。拾った貝殻には淡い緑色で橙色の線が入っていた。その橙色は私の心をとてもほっとさせ た。

  • 2001年10月25日 MOGMOG島でホームステイ

    お昼過ぎまでFALALOP島で地上調査をしたあと、ホームステイをするためにボートでMOGMOG島へ。島に到着するとMEN'S HOUSEで HIGH-CHIEFのAntonioさんにステイ先のホストを紹介してもらった。

    私のホストはCasmeroさんといい、私たちが乗ってきたボートの船頭さんだ。彼は29歳で奥さんと子供が3人いる。奥さんのCassandraさんと(年齢は不詳)、6歳のCasleneちゃん、3歳のJerwinくん、そして2ヶ月Dhereくん。ホームステイの間私の世話をしてくれたのはCasmeroさんの甥のMavrickくん11歳。私はおみやげに100円ライター10本セットと久米島焼きのお猪口を持参した。渡した後で気づいたのだが、MOGMOG島ではアルコールを飲むことが禁止されているのだ。しまった、と思ったがCasmeroさんは灰皿に使うといっていたのでよしとした。

    CasmeroさんはFalalopへ漁に行くといってさっさと出かけてしまっ た。Mavrickくんが学校に行こうと誘ってくれたので荷物を置いて出 発。歩きながら船で暇つぶしにやっていた知恵の輪を渡すと、最初はきょとんとしていたが私が解いてみせると興味を持ち始め、学校につくころには真剣になっていた。

    学校では子ども達がバレーボールとバスケットボールをして遊んでいた。ラジカセの音楽と歓声が響いている。シャツと靴を脱いでバスケットをする子どもたちの中に加わり、いっしょになって思いっきり走り回った。張り切り過ぎて両足の親指の付け根が100円玉くらい皮が破れてしまった。いつも裸足で駆け回っている子どもたちは鍛え方が違うようだ。

    夕飯はライスにポークランチョンミート。Mavrickとひとつのボール をつついた。今までの疲れがでたのか、すごく眠くなってきた。そんな私の様子を察したのかMavrickがタオルケットを出してきてくれて、蚊取り線香をつけてくれた。Mavrickは蚊取り線香のことをセンコウといっていた。横になって目を閉じると右からは環礁のさざ波の音、左からは外海の波が砕ける地響きのような音。ここは海のやさしさと荒々しさを同時に感じられる。・・・ いつのまにか眠っていた。時計をみると夜中の1時、あちこちからバイオリンの弦を一本だけ弾いたような羽音がしている。うわさに聞く薮蚊の群れ、気休めに虫除けスプレーをした。

    知恵の輪のカチャカチャという音で目を覚ますと、もう空は明るくなっていた。朝食はたぶんCasmeroさんが釣ってきた魚のフライとライス、そしてSAPPRO ICHIBAN。袋入りのインスタントラーメンはお湯を入れたボールに麺を入れてふやかしたあと、粉末スープをかけるヤップスタイル(?)。食後はMavrickがとってきてくれたココナッツジュースで一服。あっという間に集合時間になり、Mavrickといっしょに MEN'S HOUSEへ。その途中でMavrickの手の中の知恵の輪が解けた。 笑顔の彼とハイタッチ。MEN'S HOUSEにつくとMavrickは友達に知恵の輪を教えていた。MOGMOGではやったらちょっとうれしいな。ボートから振り返るとMavrickは両手を大きく振っていた。私も思いっきり大きく両手を振った。

  • 第10回敬天丸でパーティー

    明日ウリシーを後にする私たちは、お世話になったMogMog、Falalop、Asor、Fassariのみなさんを敬天丸に招いてパーティーを行うことになった。野呂隊長の指揮のもと、教官、学生総出で会場設営。複雑な船内で事故のないように張り紙をつくり、いつもにもまして 念入りに掃除をして、厨房ではパーティーのオードブルを作るのを手伝った(邪魔をした?)。

    午後3時ウリシーの島々から続々とボートが到着。チーフから子どもたちまで総勢45名。船の上が一気ににぎやかになった。子どもたちの中には昨日いっしょにバスケットをした子もいて目が合うとにっこり笑いかけてくれた。Falalopの高校で先生をしている中川俊介さんも来てくれ た。私たちの海上調査でお世話になったボートの船頭さんもいる。

    野呂隊長が調査隊を代表して挨拶、続いてHigh−ChiefのJuanitoさんが挨拶。子どもたちがmarmarという花の冠を隊長たちにつけてくれた。パーティー会場は笑い声と人々の熱気が溢れている。その雰囲気にちょっと圧倒されながらも歩き回って片言英語で話しかけ、写真をいっしょに撮ったりした。

    パーティーも終わりに近づいた頃、島の人たちは袋に残ったオードブルを詰め始めた。ウリシーの人たちはパーティーなどで出された料理の 残りを家で待つ家族のために折り詰めにする習慣がある。「これは息子の好物なんだ」と一人はりんごを手にとってニコリとして言った。島へと帰っていくボートを見ながら、おみやげ何にしようかなぁと考えている自分に気がついた。もう、この調査旅行も終盤なのだ。班としてのデータ収集も終了し、予定されていたイベントもあらかた終わった。気分はもう日本へ向いている。

    調査の間はほとんど海の上にいたので触れ合う機会は少なかったが、私の知る限りヤップの人々は親切でやさしかった。海もとても美しく心から感動した。しかしそれでも私はここに住んでみたいとは思わない。きっと時間を持て余してしまい、寝ていること意外何もできそうにないと思うからだ。また来たいと思うが、それはしばらく先のことになりそうだ、たとえば数十年後リタイアしてから。時間がゆっくり進む場所で時間に追われる生活をしていたせいか、思っていたよりも私はもっと色々なことができそうだという気がしてきた。もっと欲張りにやってみるのもいいかも知れない。失敗したら、まあそのときはヤップの海や夕日でも思いだそう。きっとうまくいく。

    < ありがとう> この航海記を書くにあたり、現地で色々面倒を見ていただいた河合事務局長、写真を提供してくれた永山君、上原君、中村さん、話題を提供してくれた金剛君、吉田さん、そして船酔いやその他もろもろでへばったときに励ましてくれた調査隊のみんな、本当にありがとう。がっちゃん、あっこちゃん、君たちのくれたCDは船酔いで死にそうなときや、調査でつかれきったとき本当に僕を癒してくれました。感謝感謝。個人的なことですが・・・ いつかふたりであの夕陽をみてみたい・・・

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    <金剛隊員のエッセイ>
    10/26 昨日で実質、調査は終了。ユリシー環礁の島の一つ、モグモグ島でのホームステイで締めくくった。半ば面倒くさいという気持ちは隠しきれず、会話も進まなかった。ホームステイモードになっていなかっ た自分。しかし、若者達とのバレーボールやバスケットボール は心から楽しめた。みんなが集まれば始まるし、日が暮れれば帰る。そしてまた明日が来る。自然な生活。突然気分が楽になった。食後、家の人と話し込む。まるで、昔からの友人であるかのように楽に自分の気持ちを出すことができた。楽だった、本当に楽だった。また、楽しかった。そして、なぜか写真を撮る気にはならず、ステイ先では一枚も撮らなかっ た。一日だけであったがこのホームステイは今まで行った外国の経験に勝るとも劣らないものとなった。改めてこういった経験ができることに 感謝した。





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