国際島嶼教育研究センター
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硫黄鳥島・与路島学術調査
硫黄鳥島の歴史

硫黄鳥島・与路島学術調査

硫黄鳥島 火口 船

  • 奄美群島徳之島の西南西65km、久米島北東約200kmにある無人島。沖縄県最北端に位置する。周囲7.3km、面積2.55平方キロメートル、標高212m。海岸部は高さ100mほどの切り立った海食崖に囲まれている。県内唯一の活火山島で、北側に硫黄岳火山体、南側には三重式火山のグスク火山体がそびえる。

    定住の始まりは明らかでないが、1631年の噴火で住民多数が死傷し、1829年の大爆発では徳之島へ避難したと言われている。1816年にはイギリス艦隊で来航したベイジル・ホールは「朝鮮・琉球航海記」の中で、硫黄鳥島をサルファーアイランドと呼び、スケッチを残している。琉球王国の重要な進貢物だった硫黄の産出地として古くから知られ、薩摩の島津氏の琉球要り後も琉球王支配下にあった。

    明治12年に沖縄県に所属、現在は久米島具志川村の行政下におかれている。同15年には飢饉の影響もあり、県が久米島への移住を説得したがそのまま残留。同36年4月に再び激しい爆発が起こり、住民は協議の結果移住を決意。翌年2月にかけて100世帯548人が久米島へ移り、新たに集落を作った。その後、硫黄採掘の再開によって42世帯が再入植、人口600人以上に増加し小学校なども開かれ、硫黄採掘は戦前まで続けられた。しかし、噴火の危険が迫り、昭和34年7月に再び無人島化した。

    引用文献:日本の島ガイド「シマダス」日本離島センター





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